あまり好ましい事ではないのだけれども、最近めっきりニュースアプリが情報源の柱になってしまった。
多様なジャンルのニュースが、そこまで時差なく配信され、自分が気になる記事を見つけて読む事ができるので重宝している人も多いと思う。
何が「好ましい事ではない」のかというと、”自分が気になる記事を読む”という行為によって、以降関連付けられたニュースが優先的にピックアップされてしまい、よく聞く「パーソナライズ」化されてしまうので、「今の日本では本当にこのニュースの優先度が高いのかどうか、このトピックの流行度はどのくらいなのだろうか」ということが客観的にわからなくなってしまうのである。
ちょっと前、例のニュースアプリを眺めていると、以前お仕事でご一緒させて頂く機会のあったアーティストの記事を見つけた。
新譜紹介だったか、ツアー告知だったか、何気ない記事ではあったのだけれど、ふと懐かしくなりその記事を開いたのである。
するとどうだろう、以降ニュースアプリにはそのアーティストに関する記事の露出頻度が上がり(上がったような気がする。。)、盛り上がってる感が伝わってくるのである。
「(そのアーティストには申し訳ないが、今はインディーズレーベルのバンドなので)まぁ、自分のアプリの中だけだろう。」とその時は流していた。
先日、子供の付き添いでレンタルショップに行った時、ふとCDのランキング棚をみると、なんとそのアーティストの新譜がTOP10に入り並んでいるではないか!(…もちろん嬉しいのです。。)
この状況を見た時に、「あぁ、パーソナライズされたメディアひとつを情報源にすると怖いな」と思ったのである。
今回はたまたま、僕のパーソナライズされたアプリ内での盛り上がりと、世間での盛り上がりが一致していたということではあるけれど、これが逆の場合、さらには「パーソナライズされている」という認識を持っていなかったらと思うと、便利なサービスではあるけれど、頼り過ぎも危険かなという気がする。
もちろん、アプリ側もパーソナライズによってユーザーの思考が分断されてしまうことを問題意識として捉えており、様々な情報を混ぜて、新たな発見を与えてくれるような仕組み作りをしてくれているそうではあるが、それでも、公共性のあるメディア(ここでいう公共性とはパーソナライズされていないすべてのメディア)ってやはり必要で、時間の無駄のように思えるけれど、それらのメディアをだらだらと眺めるのって、なんだかんだ楽しいなと思ったりする。